季刊 表現の技術

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もうじき死にますと言われたら

あなたはもうじき死にますと言われたら、どうするか。何か特別な体験、めずらしいものを食べるとか海外に旅行するとか、かねてより恨んでいた男を刺すとかをしようとは思わない。またいわゆる、「自分が生きていた証」を残したいとも別に思わない。自分が生きていた証を残すというのは、俺にもよくはわからないが、何か書き残したり、木を植えたり、山に隧道を掘り抜いて村の衆に感謝されたりする。もしかすると、生きてきた証がほしくないわけではなく、ぼくには子供が1人いるからそれで十分だと思っているのかもしれない。子供にとってはいい迷惑だろう。

特別なことをするのではなく、自分が今までもやってきた、本当に好きなことをやる、思い切り、あるいは淡々とやって死を待つ。というのは、品のいい姿勢であると思う。しかし、本当に好きなことというのは私にはこれといってない。そういうのがよくわからないままに、なんかギアが噛まんなーなどと思いながら生きてきた。だから、本当に好きなことを思うさまやって死にたい、とも考えられない。

「あなたはもうじき死にます」と実際に言われたら、なにかやりたいことを思いつくかもしれない。それは俺が本当に好きだったことなのかもしれないなあ。というぼんやりとした期待のようなものはある。

というわけで本当に好きなことではないかもしれないけど、「もうじき死にます」と告げられたら自分がやりそうなことを具体的に想像してみる。

  • 死ぬまでに春を通過するとしたら、たけのこは茹でるだろう。たけのこ御飯を炊いて食べるだろう。秋を通過するとしたら、銀杏を炒って食べるだろう。塩を振るかどうかは、銀杏の殻を割ってから考えたい。秋刀魚は好物だったはずだが、まあ一応食っておこうかというくらいである。
  • 散歩は今もよくするが、するかもしれない。多分するだろう。
  • 意外にベランダでひなたぼっこをしながらコーヒーを飲むかもしれない。

意外にというのは、こういった「生きることの味わい」めいたアクティビティには、今までほとんどまったく興味がなかったからだ。散歩はその一種のようだが違う。長距離を歩くと何か脳内に出る(汁が)のと、マンポ計の数字が増えるのとが面白くて歩いているのだ。あとマンポ計という言葉がおもしろい。

あとは、もう少し子供に金を残してあげればよかったと後悔するような気はしたので、掛け捨ての安い保険には入っておこうかなと少し考えたが、見積もりをしたら月々5千円が惜しくなってやめた。