季刊 表現の技術

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なぜ、正しくなくてはいけないのか?

「私は、なぜ、何のために、自分の生き方が正しくないといけないのか、考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。」

 意外に自分は、「正しくなければいけない」という思いこみが強いのだ。

 「正しくなくてもいいじゃない」「いつも正しい生き方を選ぶことはできないよ」といった言い方をすることはあるし、そういう柔軟な考え方が好きなほうだと自分では思っていた。

でもそれはしょせん、緊急避難的な柔軟さであって。

体力がないときは、正しい生き方を実践できないのもいたしかたない。

くつ下をぬぎっぱなしでも、いたしかたない。

ようかんの皮をバナナのようにむいて、バナナのように丸かじりしてカロリーを補給するのも、いたしかたない。

特別に、許す。

という意味の「正しくなくてもいいじゃない」だったように思う。

いずれ体力が戻ったら回復すべき正しさは確固としてあり、それを疑ってはいなかったように思う。

腕を振り回して、肩関節は十分にやわらかいつもりでいたが、肩関節より手前の肩甲骨がまるで動いていなかった。これだと手投げになって遠投は無理。みたいなことだ。

「私は、なぜ、何のために、自分の生き方が正しくないといけないのか、考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。」

なるべく働きたくない人のためのお金の話』(大原扁理、百万年書房)という本で、この一文に出会って気がついたのだった。

おもしろい本ですよ。

(なんとなく題名から想像していた内容、すなわちドカンと稼いで早期リタイアのすすめでもなく、ネットビジネスで「自由な生活」のすすめでもなく、シェアハウスなどのコミュニティ形成のすすめでもなかった。ひとりで最低限のバイトをしてムダな金を使わずに暮らすというストロングスタイルで、読んでびっくりしました。)