季刊 表現の技術

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チーズタッカルビ(2人前から)

新大久保を歩いているとチーズタッカルビの看板がたくさんある。一度食べてみたいけれども、どの店もオーダーは2人前からと書いてある。ひとりで歩いているぼくは、ふらりと店に入って注文するわけにはいかない。*1

 

元野球選手の清原さんは、離婚したあと、ひとりで韓国料理店でごはんを食べる毎日だった、と雑誌の記事で読んだ記憶がある。

単にその店に通っていたというだけでなくて、知り合いの店主が、清原さん用に特別メニューを用意していた、という書きぶりだったと思う。

清原さんは自炊は得意ではなかったのかもしれない。毎日そこで食べるのだから、店主は清原さんの体調のことなども考えて、家庭料理に近いメニューを出したかもしれない。焼き肉とか鍋とか、チーズタッカルビみたいな華のある料理は、おいしいけれど毎日は食べられない。韓国料理屋さんだけれど、和洋中の料理も出して飽きないようにしたかもしれない。お店の人のまかないと同じおかずが出る日もあったかもしれない。

その記事は清原さんが事件を起こして逮捕されてしまったときに出たもので、過去の清原さんの発言なども紹介されていた。清原さんは、ひとりで出かけるのが好きだと言っていた。「自分のタイミングで帰りたいので」というのが理由で、ぼくはおどろいた。

清原さんは番長などとあだ名されるくらいだから、豪快な人だと思っていた。取り巻きを連れて歩くのを好み、それでいて傍若無人にふるまう人だと、ぼくは勝手に決めつけていた。ほんとうのところ、清原さんは他人と一緒にいると気をつかってしまう人だ。楽しくないし、つかれるし、帰りたくても帰れなかったりする。だからひとりで行動するのが好きな人なのだ。「俺とおなじじゃないか」と思っておどろいたのである。

清原さん。人と一緒に遊んだり、ごはんを食べに行ったりしても、帰りたくなったら「自分のタイミングで」帰っていいんですよ。ぼくはそう言いたくなった。自分もそれができないから、たいていはひとりで歩いているのだけど、時分のことは棚にあげて言いたくなった。

 

アディクトにとって 「他者」とは自分に危害を加えたり 、プレッシャーや不安を与えたりして何らかの苦痛を強いる存在、常に気を遣い、我慢しなければならない相手でしかない 。

小林桜児『人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

 

 清原さんにとっても他人は、わずらわしいものだったのだろう。他人に頼らなくては生きていけない。それはわかっている。だからなおさらわずらわしい。

こういうタイプの人はひとりでごはんを食べるようになりがちなんだ。ニコヤカに、にぎやかにみんなと会食することもあるけど、終わったあとはひとりで飲み直したり、なんなら食べ直したりする。他人と一緒では食べた気がしないからだ。そして人ではなくモノやコトをあてにするようになる。薬物とか、アルコールとか、賭博とかだ。ぼくには清原さんの追いつめられかたが、なんとなくわかった。思いこみだったらごめんなさい。