季刊 表現の技術

すべての人間に公開

自己表現の技術が足りないと気づいた

年末年始にいろいろあり、自分はさみしいのだと気づいてしまった。

さみしいというのは、

・自分がどういう人間か、理解してくれる人がいない。
・少しはいるとしても、十分に深く理解されているとは思えない。
・そもそも自分を理解しようとしてくれる人なんているのだろうか?

といった感覚である。

なぜ自分はさみしいのだろう。こういうとき、原因は自分にあるのに決まっている。

と言うよりも、最近10年ばかりの私は、自分の不幸の原因を他人に求めなくてすむように、注意深く生活してきたのであった(わかる。あなたが言いたいことはわかる。この姿勢にこそ大きな問題があるのだ。が、ひとまず横に置かせてほしい)。

とにかく、私がさみしい原因は私にあり、私の生き方を改める必要がある。

では、原因とは具体的に何か。 他人が自分を理解してくれないのは、理解のための材料を、私が十分に開示していないからであろう。

自分はどんな人間か、私がきちんと説明できていないからであり、適切にプレゼンテーションできていないからであろう。

また、私を理解しようとする人が少ないのは、「他人の理解を必要としています!」と、私がはっきりと表明していないからであろう。表明しているつもりでも、「私を理解してください」というメッセージが伝わっていないからであろう。

以上を要するに、私に足りないのは、自分がどういう人間か、どういう状態にあるかを描写する技術であり、それを他人に伝える技術である。この大切な技術を今まで磨いてこなかった。

自己表現の技術が、自分には足りない。

 

現代日本の少年たち青年たちは、じつは恐ろしいほど欲求が叶えられていないのだ。もし、たとえある若者が知識欲・物欲・性欲を満足させ、友人や恋人をもっていても、まだ一つだけ彼(女)にとってこれらすべてよりも大きい切実な欲求が残っている。それは「自己表現」だ。自分を表現し他人に伝えたいという欲求、他人にわかってもらいたいという欲求だ。これが、現代日本では絶望的なほど無視されている。 (中島義道『哲学実技のすすめ』

 

中島義道がこう書いた前世紀の終わり、私はまだ「青年たち」に含まれる年ごろであった。頬は赤く、白目は濁っていなかった。

青年は自己表現の欲求を持ってはいたが、そのための技術を身につけないまま、さみしい中年になってしまった。

私は自己表現の技術を軽視していたのである。それは芸術家志望者またはクリエイター気取りの連中の問題、ようするにカッコつけたい奴らの美意識の問題だと、私はずっと思っていた。そうではなかった。

たとえば、自分がいま つらい と感じていること、なにがどのように つらい かを言語化して他人に伝えるのは自己表現である。

自分が何に困っていて、どんな助けを必要としているかを他人に伝えることも自己表現である。

その程度のことは誰でもできると思ったら大きな間違いで、その程度のことができずに死んでしまう人はいくらでもいます。

あるいは、自己表現の技術がつたないために、自分の苦しみ、またはSOSを表現するつもりが、完全に逆効果の振る舞いに出てしまう人もいる。ドアをバタンと閉めたり、配偶者や子どもの前で聞こえよがしに舌打ちをしたり、机を叩いたり、コンビニで店員さんを怒鳴りつけたり、ゴミ捨場の段ボールに着火したり、街頭で手近な人を刃傷したり……して、社会の害悪そのものになってしまう。

こういう人はたくさんいるし、特に自分と同じ中年男の事例は目につくし、見るたびにやりきれないものです。

ネット上で、というかTwitterでだけど、老眼によるtypoまじりの過激な政治的言論活動を展開してしまうおじさんたちもいる。

 

「すべての人類が憎い」とか「ありとあらゆる奴を苦しめたい」というような拡大した憎しみは、自分のうちなる憎しみを性格に観察してこなかったから、正確に育んでこなかったからだとぼくは思っている。つまり、自分の特定の根拠ある憎しみを正確に言語的に表現する訓練を怠ってきたからだと思う。

(前掲書)

 

自分を語る細密な技術を持たない人が、それでも誰かに理解してもらいたいと思うと、社会とか日本とか世界とかいった巨大な刃を振り回すことになってしまうということなのだろう。

乱暴な言葉を振り回した結果、みんなに煙たがられ、友達は減り、あるいは悪い仲間とつながり、生活はすさみ、心はささくれだち、やがて街頭でリアル刃物を振り回すことになるのである。

減量は美容の問題だから俺には関係ない、と思っているおじさんも、「痩せないと死にます」と医者に言われると、俄然真剣に減量に取り組むものである。

私は、自己表現が美意識の問題であるにとどまらず、生きるために必要な技術であることにようやく気づいたのであった。

いや、前々から気づいていたのに気づかない振りをしていたのだが、いよいよそうはいかなくなってきたのです。 苦しいこと、やりづらいことがたくさんあり、それが自己表現の技術不足に起因することは明らかなので、なんとかしなくてはいけないと思ったのである。

そこで、勉強のためのノートとしてこのブログを始めることにしたのであった。(2018年1月28日)