季刊 表現の技術

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本音と本心を区別する

熊谷晋一郎先生が「本音と本心を分ける」という話をしていて(杉田俊介さんとの討議「「障害者+健常者」運動最前線」、『現代思想』2017年5月号)、興味深かった。

熊谷先生は、本音と本心を便宜上、次のように区別する。

本音……露悪的で、それをしゃべることで相手になんらかの影響を与えることを目的とした言葉の発露。
本心……アウトプットの効果ではなく、インプットに注意を向け続けるような語り。

後者はちょっとむずかしいけれど、前者の「本音」はイメージがしやすい。 相手が眉をひそめたり、びっくりしたりする反応がおもしろくて、ついどぎついことを言ってしまう。「こいつヤバいぜ」と畏怖の混じった目で見られたいので、あるいは人間関係でのマウンティングを目的として、自分の過去の反社会的行動や、そこに反映された反社会的な価値観、感性を披瀝する。など。

「本音」の例は、リアルな会話よりもネット上でみつけやすいかもしれない。 典型的には、炎上とかページビューという効果をねらった暴言、過激な主張がそうだ。「◯◯は殺せ」式のやつです。

SNSでの毒のある発言が注目されて、ファンがついて、ファンを喜ばせるためにどんどん発言が過激になっていって、ついにはああなってしまったあの人。

ちょっと怒られるくらいの剣呑な記事はPVが伸び、広告収入につながることに気づき、どんどん炎上ねらいの記事が増えていって、ああなってしまったあのニュースサイト。などなど。

人のことを言っている場合ではなかった。私もTwitterが好きだから、そしてRTなどの反応を得るのが好きだから、ツイートしてウケる方向に、ウケる方向にと自分の言葉がひきずられていく感じはよくわかる。

言葉を発するのは相手に伝えるための行為だから、聞き手の反応が気になるのは当然である。 しかし、聞き手のある反応を得ること、が言葉を生産する目的になってしまうとーーつまり、最初に書いた意味での「本音」モードになってしまうと、自分を正しく表現する言葉からかけ離れていくことはある。

それこそ、業務として炎上を起こす人ならそれでもいいかもしれないが、誰かに伝えたい自分、誰かに理解してもらいたい自分があって語るのなら、これではまずい。「本音」モードから「本心」モードに軌道修正する必要がある。

すなわち、アウトプットの効果ではなく、インプットに注意を向け続ける。聞き手にこんな反応を貰いたい、ということはひとまずおいて、自分で自分の心の声に耳を傾ける。自分が本当のところ何が言いたいのかに注目するのである。

そういえば、最近流行っているマインドフルネスなんて、まさに自分の感じることや考えることに意識を向ける方法です。 どうしてもアウトプットの効果に目がむいてしまうのは、Twitterばっか見てるせいかもしれないから、ネット断食もできたらいいかもしれない。